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「さらばジャマイカ」ハリー・ベラフォンテ Jamaica Farewell

「ウィー・アー・ザ・ワールド」と言う歌がありましたね。
そのビデオを見ると、曲を唄い終わった後で誰からともなく
「デイ・オー 〜♪」と歌い始め、やがて出演者全員での
大合唱になるシーンが収録されています。

この1985年の「USAフォー・アフリカ」のプロジェクトを
支えたのがハリー・ベラフォンテでした。

俳優、人道主義者、そして「キング・オブ・カリプソ」と
賞賛されるハリーは、歌手という姿をかりて世界に平和を
広める伝導師でもあります。



ハロルド・ジョージ・ベラフォンテJrは、1927年ニューヨーク
のハーレム地区に生まれました。
両親とも西インド諸島出身で、父親ハロルド・ジョージSrは
フランス語国のマルティニーク、母メルヴィン・ラヴが
イギリス領ジャマイカからやって来たのでした。

彼も8歳から13歳までジャマイカで過ごし、その時の経験が
後のカリプソ音楽での成功につながります。


1949年、週給48ドルで倉庫で働きながらアメリカン・ニグロ・
シアターやアクターズ・スタジオで俳優と歌手を目指して
学んでいるうちに、ブロードウェイのクラブ「ローヤル・
ルースト」のモンティ・ケイに認められ、人前で歌うように
なると、その年の内に週給350ドルをもらう人気歌手に
なります。

しかし、彼はポピュラー・ソングで人気を得る自分に疑問を抱き、
1950年のクリスマスの日を最後に、歌手をやめてしまいます。

歌手をやめたベラフォンテは、まもなくジャマイカ出身の
二人の友人と共に、グリニッジ・ヴィレッジにハンバーガー・
ショップ「The Sage」を開店しました。

この店に集まった民謡好きの客たちによって、ハリーは
民謡への眼を開くことになり、また歌い始めます。


そして1951年11月、グリニッジ・ヴィレッジの有名なクラブ
「ヴィレッジ・ヴァンガード」に登場したのです。
ハリーのカムバックは大成功をおさめ、ニューヨーク市内外の
一流クラブに次々と出演するようになりました。


1952年にRCAと契約し、「バナナ・ボート」や「さらばジャマイカ」
のヒットで空前のカリプソ・ブームをつくりました。
その後も数々のヒット曲を放ち、アメリカを代表する歌手と
なります。
また俳優としても多くのテレビや映画に出演し人気を博します。


1959年に「カーネギー・ホール」で行なわれたチャリティ・
コンサートで、ハリーが一つ一つの歌を歌うだけでなく、
表情や演技や動きなどによって、それをドラマティックに
表現したことは、その後の様々な歌手のコンサートの原点と
なったほどでした。



1960年7月の来日コンサートを観た三島由紀夫がハリーを「褐色の
アポロ」と称えたことは有名です。


1987年にハリーはユニセフの親善大使(UNICEF Goodwill
Ambassador)に任命されました。



ハリーの活動は芸能界だけにとどまらず、公民権運動を初めとする
平和運動に熱心で、1963年のワシントン大行進にも参加しています。

また、ベラフォンテ財団によって黒人の若い芸術家たちを
財政的に援助する活動も行なっています。

そんな活動が認められて、アメリカ・ユダヤ人会議、米黒人救済
委員会、アルバート・アインシュタイン賞、ボーイ・スカウトなど
からたくさんの名誉賞を与えられています。




「さらばジャマイカ」(1957年)
ジャマイカの民謡「鉄の棒」のメロディーを使い、カリプソ歌手の
ロード・バーゲスが作った歌です。
ジャマイカの水夫たちが遠いよその国の港へ出航して行く時に、
自分の故郷のキングストン・タウンの風景を思い出してうたう
歌です。



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